カリブラ・ストーリー (あるカリブラの物語) |
1994年、彼女はドイツで生まれた。2ドアクーペとしては欧州では最も多くの人に愛され、20万台以上もの販売台数を誇る美しいスポーツクーペとして! しかもカタログモデルと同じ真っ赤なドレスに身を包み、ツインカムターボという熱いハートと、4WDのしなやかな肢体をもって...、そして日本仕様として繊細な心配りもそなえて、彼女は生まれた♪
日本仕様の彼女は当然、すぐに日本にやってきた。しかし日本に来た当初の彼女に「輝き」は無かった...。
平凡な日々と、怠られがちなメンテナンス、しばらくすると彼女は体調崩し病の床につく。入退院を繰り替えず彼女にやがて彼女の最初のオーナーは、彼女を手放す。しかし、皮肉にもこれが彼女の日本での生活の転機となった。
2002年、彼女に運命的な出会いがおとずれる。しばらくの間、屋外に放置され少し輝きを失っていた彼女ではあったが、その美しい肢体に一目惚れした、素晴しいオーナーに出会ったのだ。
この新しいオーナーは、ともすと機能優先な日本人の車への価値観とは異なり、洗練されたヨーロッパの美的感覚を持ち、『美しさ』の価値を十分の理解できる心豊かな人物であった。そんな新しいオーナーは美しいフォルムと洗練された機能を持つ彼女をこよなく愛し、彼女の今までの辛苦を少しづつメンテナンスし、癒していった。
そしてもう一つ! 彼女は大切なものに出会った。それは素晴しい仲間達♪ 彼女の故郷、欧州とは異なり日本ではカリブラは極端に販売台数が少ない。街中で偶然他のカリブラと遭遇する事はまず無い。しかし、彼女の最愛の新しいオーナーは、インターネットを駆使して多くの中間たちとののコミュニケーションを実現したのだった。
彼女は走り始めた 最愛のオーナーと共に。 彼女は詠った、多くの中間と共に♪ 彼女は駆け抜けた、美しい日本を、日本中を!! そして素晴しい時を謳歌した♪ 永遠に続くと思われた幸福の時間の中で...
しかし、そんな幸せな時間は突然終わりを告げた。2009年、最愛のオーナーが、なんと彼女の母国であるドイツに転勤になってしまったのだ。オーナーは泣く泣く彼女を手放し、彼女と過した7年間の思い出を胸に、ドイツへ旅立っていった。
それから、およそ半年。消息の判らなくなった彼女の居場所が、突然判明する。
なんと、彼女は生まれ故郷のドイツに戻っていた。彼女が最愛のオーナーを追い求める気持ちが通じたのか、中古車市場でカリブラの不人気な日本より、カリブラがまだまだ根強い人気のドイツ本国での販売に魅力を感じたのか、彼女はドイツに再輸出され、生まれ故郷の土を踏んだ。
ドイツ本国のインターネットに、彼女は掲載された。日本ではタダ同然だった彼女が、日本仕様の希少なカリブラとして、そして何より最愛のオーナーにきめ細かくメンテナンスされていた事もあり、6500ユーロもの高値がついた。
最愛のオーナーが住む国にたどり着いた喜びからだったのだろうか、長い航海をしたにもかかわらず、彼女は輝いていた。希望にあふれていた。ドイツ本国にたどり着いた直後の彼女のテールエンドには、日本で多くの中間と過ごした友情の証、POINT26のステッカーが、しっかり貼られていた。
そう、これが日本で幸せな時を過していた、彼女の写真。テールエンドのブリッツマークの隣には、日本唯一のカリブラオーナーズクラブ POINT26 のステッカーが!
そんな彼女の消息はたちまち日本の仲間達の目にとまり、電子メールでシュツットガルトに赴任したオーナーの元にも連絡が届く! 驚きと感動と共に、オーナーは早速6500ユーロを握り締め、彼女に会いに向かう。しかし、最愛のオーナーが暮らすドイツにやっとの想いで、たどり着いた彼女の幸運は長くは続かなかった。美的感覚に優れた欧州の人々の中では、人気のある美しいフォルムの彼女には、たちまち他の買い手がついてしまったのだ...。
僅かのタイミングで、感動の再会を逃した彼女は、思い出の詰まったPOINT26のステッカーを剥がされ、今は生まれ故郷のアウトバーンを生まれて初めて疾走しているころかもしれない。
いつか最愛のオーナーとの再会を夢見て! 彼女の旅はまだまだ続く...。
欧州のカリブラカリブラ用品を求めて | Europe |
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